地図が読めることで失われる認識の豊かさがあると思う。地図的に空間を俯瞰することで初めて地点と地点を線で結ぶことができるが、もしそれを持たなければ、地点と地点を結ぶのは連想の回路であり、それが道になるのだろう。地図はあまりにも多くのものを捨象している。とはいえ、僕の空間認識はあまりにも地図的で、それは道路が碁盤の目状に整備されている京都で育ったことにも一因があるのだろうが、地図の読めない人の空間認識はまったく想像が及ばない。夜、「梅切らぬバカ」という映画を観る。母親と二人暮らしの自閉症の男と、それを取り巻く地域社会を描いた作品。映画の構成的に意図されたものであるとはいえ、僕は自閉症の人々の行為や情動を理解できるし、同一のスペクトラム上に自分もいると感じる。しかし、それは何に由来する共感なのか。何も共有していないのに、同族と認識できるのはなぜなのか。